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「犯罪をなくしたい」から体験を語る〜小暮芳信さん〜


釜ヶ崎支援機構事務所の前で、ヘルメット姿の小暮芳信さん。

 小暮芳信さん、38歳。NPO法人釜ケ崎支援機構の職員として働く傍らで、「犯罪をなくしたい」思いから受刑体験を話す活動を続けている。顔も名前も公開して自ら犯罪歴や受刑したことを語る人は少なく、自身の過去が記事になったこともある。小暮さんの応援をしたくなり、今の気持ちを聞いてみた。

更生プログラムの経験が、 職場の人間関係づくりに役立っている

 今朝もまた、刑務所に入っている夢を見ていた。塀の中で、どうせ俺は何をやってもだめなんだと嘆いている夢。朝起きてしばらく、「また入ってしまった。自分には自由がない」という感覚に襲われる。一週間に一度はそんな夢を見る。刑務所を出て4年半、今もトラウマのような感覚が残っている。「過ちは繰り返さない、二度と入りたくない」というプレッシャーは、周りが想像している以上に大きい。

 小暮さんは今、NPO法人釜ケ崎支援機構で、日雇い労働者の清掃事業を安全に円滑に完了させる指導員として働いている。この仕事に就いて2年半。犯罪歴があることも正直に話しているが、こんなに仕事が長く続いたのは初めてだ。受刑体験を話す活動についても、社会的なことをがんばっているという認識で見てもらっている。

 日替わりで仕事に従事する労働者の中には指導員に反抗的な態度の人もいて人間関係が難しい。そんな中「小暮ちゃんは、ちゃんとわしらの言うことを聞いてくれる。気持ちが伝わってくる」と声をかけてもらっており、大きな頭にちょこんと乗ったヘルメット姿をいじられて笑いを取るなど、うまくやっている。傾聴の姿勢を持って接すること、その人がなぜそう言うのかに注意を向けることで人間関係が築けることを、刑務所で学んだことが役立っていると思っている。

 刑務所には2年2ヵ月いた。更生教育を受けて過去と向き合う時間を持ち、自分を受け入れることができるようになった。うまくいかないのは頑張りが足りないからと自分を責めて鬱になったり、自殺未遂をしたこともある。自分のことが嫌いだった。しかし、ありのままを認められるようになって、気持ちが楽になった。自分の弱さを認め、弱いままで生きていける術を身につけたのだと思う。

懲役太郎にはならない 弱い自分にも向き合い続ける

 そういうことが、刑務所に入ってからできるようになった。更生プログラムはグループの対話の中で行われ、お互いに発言の背景や過去に踏み込むことになる。そのプロセスで仲間とやりとりした経験が、今、職場の人間関係に役立っているのだ。

 こう書くと、成功物語のように見えるかもしれないが、実際は今も、もがき続けている。

 出所してすぐに、人身事故を起こした。幸い大事にはならずにすんだが、仮釈放が取り消しになるかもしれず、不安な数カ月を過ごした。クレーマーのトラブルに巻き込まれて職を失ったこともある。払った家賃を仲介業者が持ち逃げし、大家ともめてアパートを出ることになって、ドヤを転々とした時期もあった。

 でも、懲役太郎にはならない。大阪拘置所で、自分をさげすみ、どうせ俺なんか社会で生きててもだめだからと自暴自棄になって、懲役生活を繰り返す人をそう呼ぶと知った。そうはならない。再犯しないために、常に過去と、自分と向き合い続ける。周りに迷惑をかけないか、これでいいのか。毎日神経をすり減らしていて、「たぶん、いつも、ものすごく疲れていると思う」

体験を語ることは、 自分を深く見つめ直すこと

 出所して2ヵ月で、シンポジウムに出て人前で受刑体験を話す機会を得た。以来、大学、警察やイベントなどさまざまな場面で語っている。中卒で犯罪歴のある人間が、大学生に講演するなんて。そんな立場に立つことで社会的地位を保った気になり、自分は大丈夫と思い込んでいるだけではないかと自問自答することもあるが、「語る」ことは間違いなく、自分を見つめ直す作業を深めている。

 また、社会復帰してからも更生プログラムの仲間や支援員と継続的に交流している。3ヵ月に1度集まって近況や悩みを話したりする、自助グループのような集まりは、1つのよりどころになっている。

 それから、忘れられない人がいる。刑務所に向かう新幹線の車中、手錠でつながれて座る小暮さんに、2時間ずっと話してくれた刑務官だ。「お前にはもっとできること、やれることがある。更生してほしい。応援してくれている人がいることを忘れるな。1人じゃない。がんばれ」。情熱を傾けて言葉をかけてくれたのに驚き、泣きながら話を聞いた。この刑務官の推薦があったから、更生教育の充実した刑務所に行くことができた。犯罪に至る前の小暮さんに、そんな人との出会いはなかった。

 今は、自分は1人じゃないと思える。刑務所で一緒に涙を流した仲間や、お世話になったいろんな人がいる。逃げたくなった時も、彼らを裏切ってはいけないという思いがよぎるから、再犯しなくてすんでいる。

 知り合いが再犯したという噂や、事件の報道を聞くと悲しい。更生に力を尽くした支援員や関係者も悲しむと思うけれど、「もっと精力的に活動していれば防げたかもしれない」という思いがよぎる。犯罪抑止のために、できることをしたい。

 自らの体験を語ることで、犯罪が起こらないために何ができるのか考える機会を提供したいし、いじめや不登校で苦しんでいる人には、1人じゃないんだと気づいてほしい。「刑務所に入ってから泣くよりも、入る前にいっぱい泣いた方がいいんです」。小暮さんが手に入れたような、犯罪を抑止する存在が増え、人間らしい交流が増えてほしいと願っている。

清掃事業に出発。今は大阪市内の現場を担当している。 約20人の労働者と共に担当場所に出向き、道路や施設を清掃する。

清掃事業に出発。今は大阪市内の現場を担当している。 約20人の労働者と共に担当場所に出向き、道路や施設を清掃する。

広島、神戸と転々とし 生活保護のブローカーにだまされて

 小暮さんの経歴を記しておこう。

 生後すぐに母親が家を出た。間もなく父親も小暮さんをおいて家を出る。父親からの性的虐待もあった。4歳の時に児童相談所に保護され、里親に預けられたが、11歳で里親の父が脳溢血で倒れて養護施設に。中学卒業後は職業能力開発校に行き、17歳で養護施設を出る。その頃いったん実父と暮らすが、小暮さんの給料を持ち出すこともあり、落ち着いた生活ではなかった。家が火事になり全焼したのをきっかけに、家を離れて広島で働き始める。

 営業職の頃、きついノルマに疲れ果て、成績が伸びずに給料も減り、お金に困って平和公園で大泣きしたことがある。閉じこもってしまい、会社の寮に帰ることができないでスーツのまま公園で寝起きしていた。何もかも嫌気がさして自分の腹を包丁で刺した。4ヵ月入院した。

 25歳。仕事を転々としていた頃、「神戸にくればなんとかしてやる」と声をかけてもらった人を頼って引っ越したら、生活保護のブローカーだった。保護費を吸い上げられ、何とかそこから逃れようと借入をした相手が闇金。その頃から犯罪まがいの仕事や詐欺グループとつながるようになり、次第に詐欺グループが自分の居場所になっていった。1回目は執行猶予判決だったが、5ヵ月後に再犯で捕まり詐欺罪で実刑判決を受ける。

 1回目の裁判の後、社長が協力雇用主をしている会社を紹介してもらい就職した。すぐに再犯してしまったが、社長が身元引受人になってくれた。裁判期間中は10ヵ月間拘置所で過ごした。保釈申請すれば認められたかもしれないが、住むところもなく、希望はしなかった。大阪拘置所が建て替え工事中で部屋がなく、本来なら初犯の被告人ばかりの雑居房に入るはずが、再犯の被告人と一緒に収容された。そこはまるで犯罪の学校のような場で、自分をさげすむことで生きてることを実感している人たちばかりに見えて、これ以上犯罪の話を聞きたくないと思った。刑務所でもそれが続くなら、自分はくさってしまうと思っていた。

 判決が確定し未決囚(被告人)から懲役囚になることを赤落ちという。判決が出るまでの期間は着るものも自由、手紙も制限なく出せたが、刑が確定した途端、刑務官の態度が乱暴になった。どんなに寒くても着るものは2枚だけ。お菓子を買えるのは月1回300円、それも素行が良いと認められた場合だけなど、待遇が大きく変わる。2週間が経ったある日、「明日朝早いから、寝とけよ」と刑務官に声をかけられた翌日、島根あさひ社会復帰促進センターに移送された。

島根あさひ社会復帰促進センターで 訓練生として学んだもの

 受刑者の中でもエリートが行けると言われている、PFIの刑務所だ。希望は出さなかったが、ここに決まったのは小暮さんに目をかけてくれた刑務官の推薦や、会社の社長が身元引受人になってくれたことなどが力になった。

 島根あさひ社会復帰促進センターに着くと所長から「ここは刑務所ではなく社会復帰促進センター。社会復帰した時に人間性を失わないでほしいから、受刑者ではなく訓練生と呼ぶ」と聞いた。拘置所とは違う、人間的な扱いだと感じた。更生教育のプログラムも充実していた。プログラムを受けただけで簡単に更生できるわけではなく、自分と向き合い、過去を向き合うプロセスはしんどかったが、ここで学んだものは大きい。

 実刑判決を受けた裁判で、裁判官に「すっげえ怒られた」のをよく覚えている。「あなたを有罪にします。刑務所に行ってもらいます。もっと社会のことを勉強してほしい。執行猶予があなたの糧になるとは思えない。これからどう生きていけばいいのかよく考えてほしい。執行猶予が煩わしかったというのが、残念でならない」と。1回目の裁判で執行猶予判決を受けた時、執行猶予がわずらわしいと思ったことを、今なら自分勝手だったと思うけれど、その時はそう思えなかった。

 たまたま、島根あさひ社会復帰促進センターが良い施設だったから自分を振り返って考えることができた。もし、犯罪を続けていたら今のような思考になっていなかったと思う。自分をさげすんだまま、ぜんぶ周りのせいにしていたと思う。

ほほえみに幸せを感じつつ、 仕事と「語る活動」を両立させたい

 仮釈放になった33歳の3月。身元引受人になってくれていた協力雇用主の社長に迎えてもらい、大阪で働き始めた。ガラスや鉄などを溶かす釜を補修したり作ったりする築炉の仕事。釜の温度は1000度を超えることもあり、過酷な仕事だった。日給8000円。いろんな現場に行ったが、原発の後処理の時は辞退した。1年ほどで、あわないなと思って辞めた。

 次の仕事はすぐに見つかった。人材派遣会社で携帯電話会社のコールセンター業務についた。しかし、1年くらいして社員に昇格する話も出始めた頃、たまたま対応した人がクレーマーで「小暮を出せ、殺す」と包丁を持って殴り込んでくるというトラブルが起こる。警察沙汰は避けたいというので謹慎処分、その後解雇。

 そんな頃、今の職場を紹介されて釜ケ崎支援機構で働くようになった。島根あさひ社会復帰促進センターで出会った人の紹介だった。朝の8時頃から夕方4時まで、週5日の勤務。前述のように、今の仕事は順調だ。

 仕事以外に趣味などはなく、語る活動をしているか、アパートでゴロゴロ寝ているかのどちらかという暮らし。もっと活動を増やしたいと思っているけれど、お金になるわけではないので仕事と両立させなくてはいけない。

 今は、いろんなところで幸せを感じている。ほほえみ、笑い顔が大好きで、子どもとお母さんがほほえんでる姿を見ていいなあと思う。職場で労働者が笑っているのもいいなあと思う。自分の話を聞いて共感してくれる人がいるのも嬉しい。

 職場とアパートのある釜ケ崎は、漫画じゃりン子チエの世界。世の中が物騒になって、子どもにほほえみかけても無視されることも多いご時世だが、この地域のこども達はたくましい。小学生におはようと声をかけると、「なんや、お前!」と返ってくる。「仕事や!」と笑い返す。そんな関係性がいいよなあと思いながら、暮らしている。

小暮芳信さん メール: sorrir.k@gmail.com Facebook

文・写真 如月オフィス 川畑惠子

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