性暴力事件の傍聴で考えたこと
2009年5月、刑事裁判に市民が参加する裁判員制度が始まった。私は2009年度、制度施行初年度の裁判員候補者になったことをきっかけに、裁判とは何か。良い裁判とはどういうものか。そこに市民が参加することの意味や市民の役割は何か、といったことについて考えるようになった。
候補者向けに裁判所から送られてきた資料には、「裁判員裁判は、裁判官と市民の協働」と記されていた。NPO法施行や地方分権などの流れを受けて、90年代後半頃から様々な分野での市民参加が進む中、市民・NPOと行政セクターの協働推進に関わってきた一人として、司法への市民参加が始まることは歓迎できると考えた。同時に、法律ができたことがゴールではない。協働がうまくいくためには、目標を共有し、専門家も市民も双方が継続的に努力する必要があると思い、司法の分野で市民の側から動きを作るために「“裁判員ACT”裁判への市民参加を進める会」の活動を始めた。
裁判を傍聴するようになって、様々な思いがふくらんだ。「裁判で白黒つけようじゃないか」「裁判で真実を明らかにしよう」という言い回しがあるように、多くの人は裁判で結論を出すことが最終地点のように漠然と考えていると思う。しかし、裁判というのは1つのプロセスであって、裁判が終わればそれで問題がすべて解決するわけではないことを、多くのことから学んだ。また、「もしも裁判員として有罪無罪や刑の重さを考える立場ならどう考えるか」という視点を持ったことが、見聞きした出来事を強く自分に引き寄せて考えさせた。
たとえば、ある強姦致傷事件の裁判。被害者は22歳の女性。新卒で入った会社で働き始めた4月、歓迎会後に寮まで送ってもらった後の事件。それまで男性との交際経験はなかった。被告人は40代の管理職。事件の後、仕事と家族を失った。被害者は、「嫌だと言ったのに。反省していない被告人に厳罰を」と訴えた。怪我の診断は、キスマークのあざが14ヵ所というもので、被告人は「脅したり乱暴したりはしていない。好意を確かめ合ったはず」と主張した。裁判員裁判の判決は懲役7年の実刑。被告人は控訴したので、裁判はまだ続くことになる。
女性の負った傷は、被告人に厳罰を与えるだけで癒えるのだろうか。回復のために必要なことは何か。性暴力事件の被害者として支援活動をしているAさんが、「安易なセックスは女性の心身だけでなく、男性には社会的にもリスクがあることも含めて性教育を充実させるべきだろう」と話しように、このような事件を繰り返さないためには、男性にも女性にも、お互いを尊重し合う関係を作れるようなジェンダー、人権の視点も含めた教育が必要だろう。傍聴していて、やりきれない気持ちになった。
裁判員裁判は、性暴力事件だけでなく殺人や強盗致傷、放火といった事件が対象になる。被告人に障害があったり、介護や貧困など様々な課題を抱えていいる等々、被告人が再び地域に戻った時の社会生活に困難が予想される事例は少なくない。裁判員として事件に真剣に向き合うことは、そうした社会の課題を私たちにつきつける。
残念なことに、裁判員の経験を「一切話してはいけない」と守秘義務が誤解されていることもあり、自らの経験談を語る人がきわめて少ない現状があるために、市民にとって裁判員裁判が身近になったという実感はまだない。守秘義務の壁以前に、そもそも、私たちは社会課題についてふだんから語り合うことに慣れていないとも思う。
しかし、裁判への参加を通して「身近に起こっている出来事」への実感を持つ人が増えることは、地域社会にとって良いことだ。裁判員の経験が地域で共有、蓄積されていき、なんでも「お上にまかせておけばよい」というのではなく、「地域の問題は、私たちみんなの問題」と感じる人が増えてほしいと願っている。
如月オフィス 川畑惠子
(NPO法人SEANの会員誌に寄稿した原稿を掲載しました)